東日本大震災から10年。
震災を記録した3冊の本をご紹介します。
(今回紹介する本にはショッキングな内容も含まれます)
ナインデイズ
ーー災害は必ず来る。
災害医療が世に認められていない中、岩手医科大学で働く医師・秋冨慎司氏は、岩手県庁に働きかけ、災害に対応する体制をいち早く整えてきた。
その最中、岩手を大地震が襲う。
普段繋がることの無い組織が連携し、盛岡市の県庁には即座に災害対策本部が設置された。
彼らを一つにしたのは切実な思い。
「一刻も早く、人命を救助する」
岩手県災害対策本部の9日間の戦い。
遺体
釜石市のとある廃校。
地震の直後から、ここは遺体の安置所になった。
瓦礫の下で。海上で。
遺体は日々増えていく。
せめて、彼らを家族の元に帰したい。
その思いだけで望む身元の確認作業は、想像を絶することの連続。
心をすり減らしても、目を背けることは許されない惨状を前に、人々はどう臨んだのか。
被災地の真髄に迫った渾身のルポタージュ。
サンドウィッチマンの東北魂 あの日、そしてこれから
東北復興を表舞台で支えてきたサンドウィッチマン。
2人がパーソナリティを務める「サンドウィッチマンの東北魂」より、ゲストとの印象的なトークを収録。
東北で起きたこと。自分ができること。
様々な分野から見る、復興のあゆみ。
まとめ
「女川の海で、100人から200人の遺体が・・・」
避難所のスピーカーから流れたラジオの声を、今も忘れられません。
それは時間が経つごとに「200人から300人」になり「300人から400人」になり、500人、600人と増え、しかし最後が一体どんな数字だったのかは覚えていません。
私は、今まさに遺体を数えているだろう人の光景を想像しました。
夜のことです。
その人はヘリコプターに乗っているのか、それとも高台にいるのか、双眼鏡を覗いて暗い海に目を凝らし、何百もの遺体を端から数えている。
身を引き裂かれるような。
喉元が凍り付くような。
すごいことが起きている、と思いました。
それからの数日。
バイト先の100円ショップには、近所の人たちが割れたガラス窓から入り込み、水浸しになった薄暗い店内を使えるものを求めて右往左往していました。
友人の行方を追って避難所に電話をかけたとき、相手は一瞬の沈黙の後「ここにはもう避難された方はいないのです」と声を落としました。
知り合いは、津波に追われながら車を走らせ、すんでのところで助かったのだと沈痛な面持ちで話し、また別の知り合いは体育館に並んだ遺体の顔を一つ一つ確かめながら親戚を探したのだと。
道に転がった魚の死骸。
積み重なった車。
線路から飛びだした電車の車体。
当時の私は仙台で寮暮らしをしていましたが、周りの友人も盛岡に住む家族も息災で、津波の被害に遭うこともありませんでした。それなら、同じ東北にいる身として何かできるのではないか、するべきではないのか?
その時の私は復旧に駆け付けられる、いわば最前線にいたのです。
しかし、結局は憂鬱に任せ、何もしないままただラジオから流れるニュースを聞いているだけでした。すぐそばでふさぎ込む人になんと言葉をかければ良いのかすら分かりませんでした。
ある日、注意喚起をするチェーンメールが友人から送られてきました。
地震が起きたらこうしろ、避難所では人災に気をつけろ、といった内容でした。文面を作った人も、メールを送った友人も、何かしたい、何かしなければ、という思いがあったのだと思います。せめてこのくらいは、と私もメールを思いつく限りの友人に送りました。
それに、一人の友人が返信をしてきました。
「お前は大丈夫だったんだな!?」
その言葉で、私はもっと私自身に目を向けて良いのだと思いました。
あの頃、「絆」とうたわれる世の中で、どれほどの人が孤独を抱えていたでしょうか。
「前に進もう」の言葉で、どれほどの人が無理に心に蓋をしたでしょうか。
笑うより前に、私たちにはもっととことんまで悲しむ時間が必要だったのではないか。
今でも震災には空虚な思いばかりが募ります。
この穴が埋まることは一生ないかもしれない。
東日本大震災から10年、私にはたくさんの課題が残っています。
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【ユタとふしぎな仲間たち】 #読了
— ちこやま (@chiko_yama398) 2021年3月6日
舞台は東北の山あいの村。初刊行が1971年らしく、今の感覚だとだいぶ寂れた雰囲気。ペドロたちのオムツも布かな?そりゃあ…ね。笑
幽霊にもなり切れない。待つ人もいない。時代が時代とはいえ座敷童子たちの成り行きは切ない。https://t.co/5C0LrMhWDv
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